イラク、アフガニスタン問題(3)

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 中東問題は様々な問題が絡み合っている。世界的な問題ともなるのが、核の問題である。核保有国にとっても、非保有国にとっても、恐れている問題がある。核の流出による脅威である。
 その懸念の一つにパキスタンがあげられる。パキスタンの核が流出して、タリバンが核を手に入れるという可能性が出ている。そうなれば、中東問題だけでなく、世界的な問題にもなるだろう。

 それでは、パキスタンの核兵器が流出する可能性はないのだろうか。パキスタンの核兵器をタリバンが手に入れるシナリオは3つあるという。
・パキスタン軍がタリバンに敗北を喫した時
・軍内部には、パキスタンで活動するタリバンに手を貸すシンパがいる。彼らの協力でタリバンが核施設を部分的に占拠するケース
・タリバンが移送中の核兵器を手に入れる可能性。核兵器の最終的な組み立て段階では、パキスタン空軍が部品を関連施設に空輸することになっている。だが、それ以外の時は兵器は基地で厳重に保管されている

 1970年代初頭に始まった核開発は、パキスタン軍が完璧なまでに管理を行ってきたという。軍は開発を取り仕切り、核兵器施設を事実上、掌握。官僚政治が機能していないこの国で、核兵器計画は効率性、能力、成功のよりどころとなってきたという。
 パキスタン軍は仮想敵国と見なしているインドに対して、核兵器こそが究極の抑止力になると認識しているため、核の管理は重要視しているだろう。そのため、核兵器を監視するパキスタン軍が崩壊しない限り、核がタリバンの手に渡る可能性は低いという見方がある。
 これは、核が流出する可能性が低い理由の一つであるが、同時に、核がなくならない理由の一つにもなる。

イラク周辺国からの影響

 イラク問題はイラク国内だけの問題ではない。イラクの周辺の国の問題も関わってくる。
 マリキの率いるアッダワ党は、シーア派の復興運動として誕生した組織で、1970年代にはフセイン政権にとって最も厄介な国内の反対勢力に成長した。そのためフセインはアッダワ党を徹底的に弾圧。同党によれば、20万人以上の党員や関係者が殺されたという。マリキも79年10月、命からがら国外に脱出した。
 イラクにとって、当時のイランは自分たちに安全な作戦拠点を提供してくれた唯一の国だった。両者の間には、反フセインという共通点もあった(当時はアメリカも含め、大半の国がフセイン政権を支持していた)。
 80年にイラン・イラク戦争が始まるとイラクの反政府ゲリラへのイランの支援は強化され、1年後には活動の拠点となるキャンプの設立が許可された。場所はイラン南西部の都市アフワズから20キロ、ペルシャ人が多数派のイランの中でアラブ系住民が多いイラクとの国境地帯で、ここで数百人のゲリラ兵が寝食を共にし、イラク軍出身者から軍事教練を受けたという。

 しかし、この『オアシス』は長続きしなかった。イラク側は最高指導者を頂点とするイラン型イスラム国家モデルに反発し、イラン側はイラク人ゲリラを自分たちの支配下に置こうとしたからだ。
 やがてイラン当局は新たなイラク人反体制派組織、イラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)を立ち上げることにした。アッダワ党の一部はSCIRIに合流したが、大半は参加を拒否した。アッダワ党は結局、キャンプをSCIRIに明け渡すことにした。イランは新しいキャンプの主人となったSCIRIに全力で肩入れし、その結果、アッダワ党の勢力は衰え、イラン当局との軋轢はその後も続いた。
 イランが03年、アメリカの後押しで成立したイラク統治評議会を周辺諸国で最初に承認。昨年、この地域の国家元首で最初にイラクを訪れたのも、イランのマフムード・アハマディネジャド大統領だった。

 現在のマリキ政権はイランを脅しの材料に使い、周辺のアラブ諸国や欧米から譲歩を引き出そうとしている。つまり、欧米などの不安をうまく使おうとしているというわけだ。ということは、マリキ政権はまだ理性的な判断ができるということか。
 イラクに対するイランの影響力を完全に排除するのは不可能だ。イラク政府当局者によれば、両国の貿易額は年間40億ドル。イラクから見て、イランはトルコに次ぐ第2の貿易相手国で、しかもイランは、いざとなれば親イラン派の武装民兵を動かしてイラク国内を大混乱に陥れることもできる。
 つまり、イランに尻尾をつかまれている状況で、貿易から混乱までイランの影響力は大きいというわけだ。

 アメリカがイラクから手を引きつつある今、欧米とアラブ諸国にはイラクがイランの勢力下に入ることへの懸念が広がっている。イラク国内でもイスラム教スンニ派を中心に、シーア派主導のマリキ政権は同じシーア派を国教とするイランの操り人形にすぎないという不満の声が上がっている。

イランへの影響

 イラク問題が改善されない中、隣国のイランも同様に深刻である。両国とも深く結び付き合っているために片方だけには集中できない。
 イラクで武装勢力の破壊活動が激しかった00年代半ば、クッズ部隊の工作員はシーア派の民兵に直接武器を与え、戦闘訓練を施していた。07年、米軍が民兵組織の指導者の1人カイス・アル・ハザリの身柄を拘束すると、何者かが5人のイギリス人を人質に取り、ハザリの解放を要求した。
 昨年末、ハザリの身柄がイラク当局に引き渡されると、イギリス人人質の最後の1人が解放され、その後ハザリも釈放された。

 米軍がイラクを占領するずっと前から、クッズ部隊はひそかにイラクに根を張っていた。米軍侵攻が始まる直前の時期、当時のフセイン政権に反旗を翻したクルド人やシーア派の多くはスレイマニに頼っていた。
 配下の工作員や協力者、軍事顧問、民兵、密告者―イラク国内に張り巡らせたネットワークこそ、スレイマニの力の源泉だ。
 カセム・スレイマニは53歳で、イラン革命防衛隊の悪名高いクッズ部隊の司令官として、イランの対外工作を取り仕切っている人物だ。その任務には公然・非公然の活動の外、純然たるテロ行為も含まれる。
 最も現在のスレイマニは、かつてほどイラクに集中できないようだ。イランでは昨年6月、大統領選の不正疑惑を契機に大規模な抗議デモが起きて以来、政情不安が続いている。そのためスレイマニは権謀術数が渦巻く国内政治に目を向けざるを得ない。
 そのスレイマニがイラクでどんな動きを見せるかは、イラン国内の政治闘争の結果次第で変わってくる可能性が十分ある。さらにイラン大統領選後の政情不安のために、最高指導者のアリ・ハメネイ師は対外工作だけでなく、内政でも革命防衛隊とクッズ部隊に頼るようになった。
 彼らは既に治安分野以外にも相当な影響力を持っていたが、おかげで経済分野でも影響力を大幅に強め、外交分野でも発言権を強めたという。

イラン情勢不安定でもスレイマニは要注意

 本人を含むクッズ部隊の幹部は昨年の大統領選で、ハメネイのお気に入りだった現職のマフムード・アハマディネジャド大統領ではなく、ミルホセイン・ムサビ元首相を支持した。
 それでもスレイマニに対するハメネイの信頼は揺らいでいないという。その理由の1つは、外国でイスラム体制の敵と戦ってきた実績がある。もう1つは、説得と脅迫を織り交ぜたスレイマニの手錬手管が、反体制派の封じ込めに役立つからだ。

 クッズ部隊は80年代にレバノンでシーア派組織のヒズボラを創設。以来、現在まで武器の供与を続けている。近年は資金と物資の秘密援助でガザのイスラム原理主義組織ハマスも支えている。
 07年、イランのウラン濃縮と核兵器開発を阻止するために国連安全保障理事会が採択した決議1747号は、他の革命防衛隊幹部や弾道ミサイル開発担当者と並んでスレイマニを制裁のターゲットとして名指ししている(この制裁にイランの核開発を止める力はなく、スレイマニの動きを阻止する効果もなかった)。
 前任者のアハマド・バヒディ(現国防軍需相)とは明確に違う。バヒディはレバノンやアルゼンチンでテロ事件に関与した疑いがある。
 バヒディが司令官だった80~90年代、クッズ部隊の工作員はヨーロッパでイランの反体制派や政敵に対する暗殺作戦を繰り返した。これに対し、改革派のモハマド・ハタミ大統領が政権の座にあった00年にクッズ部隊の司令官に就任したスレイマニは、もっと自国に近い地域での活動を重視し、あからさまなテロ行為よりも微妙な政治的ゲームに力を入れている。
 スレイマニとクッズ部隊は今も『あらゆる資源と武器と先端技術を』ヒズボラとハマスに提供しているという。関与の度合いはずっと低いが、アフガニスタン西部の(イスラム原理主義組織)タリバンにも援助を行っているという。
 スレイマニの動向は、イラクにも大きな影響を与えるため、要注意だろう。

憎しみの悪循環

 さらに、憎しみの悪循環を生んでしまう問題が後を絶たない。
 2001年10月、米軍がアフガニスタンに侵攻してタリバン政権は崩壊、その勢力は急速に失われた。これで治安は回復し、人々はイスラム原理主義の呪縛から解放されると思われた。しかし、その後も軍閥同士の争いが続き、04年ごろからタリバンの復活がささやかれるようになった。
 08年4月にはカブールでカルザイ大統領の暗殺未遂事件が勃発した。6月にはカンダハル州の刑務所が襲撃され1000人余の囚人が脱走。
 そして、8月18日、北大西洋条約機構(NATO)が率いる国際治安支援部隊(ISAF)のフランス部隊がカブールの東北約50キロのウズビーン峡谷でタリバンの待ち伏せにあい、交戦は20時間におよび、10人の兵士と1人の通訳が殺害され、21人が負傷した。これは支援部隊の地上戦では最大の、またフランス軍にとってはこの25年来最大の、死者数だった。

 そのタリバンへの報復としてNATO軍は近隣の3つの村を爆撃した。そのうちの1つの村では結婚式に多くの人が集まっており、何十人もが爆死。全部で100戸の家が破壊され、1000人もの人が避難民となり、家畜がほぼ全滅した。彼らには残されたのは外国人部隊に対する強い憎しみだけだった。
 戦争には犠牲者が出る。そして、報復は悪循環を生む。その悪循環のスパイラルに陥る問題をあらわしている。

<参考資料>
・「核がタリバンに渡ることはない」
スミット・ガングリー(インディアナ大学・政治学教授/Newsweek 2009.5.20)
・「イラクとイランの微妙な友人関係」
ラリー・カプロウ(バグダッド支局/Newsweek)
・「イラクの命運を握る陰の総督」
クリストファー・ディッキー(Newsweek 2010.3.17)
・「「敵の姿」 2 タリバン」
(DAYS JAPAN 2009.7)

参考記事
・「4月のアフガニスタンとパキスタン 2010」/吉備団子の全球北東西南

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